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とりとめのないこと

『赦し』について 〜埋葬は三日月の朝を口ずさむ/悪党 感想〜


『埋朝』を観る前に『悪党』を観た。

 

附属池田小事件被害者遺族のその後を描いた舞台だが、事件当時の私は物心もつかない赤子で、どのような事件だったかよく知らない。

 

橋本さん演じる矢島望は妹を事件で亡くしたのだが、同じように家族を亡くすもなんとか支え合って前を向く伊崎家と対照的に、矢島家はすれ違う様子が描かれる。

 

犯人の極刑を求める署名集めに奔走し、被害者遺族にも強要する父、娘の面影を追い求めスピリチュアルに手を出す母。

望はある事情から「自分のせいで妹は死んだ」と自責の念に駆られており、その罪悪感を誰にも話せぬまま、父の活動を手伝い、母を支えるべくかつて妹がしていたようにピアノを習う。

 

観ていると、明らかに望の表情が暗く『何か抱えている』とわかるのだが、恐ろしいことに終盤まで望への救いが無い。
望が苦しむことになったのは周りに支えてくれる存在がおらず、望は終始支える側だったからと思えてならなかった。


「そんなに苦しいなら父も母も助けず逃げればよかった」と考える人もいるかもしれないが、自分の思いを押し殺して自発的に両親に奉仕していた状況で、果たして『逃げ』の選択をできるのだろうか。

 

親の因果が子に報い、こどもが苦しみ挙げ句の果てに失声症になる姿が耐えられず、何度もDVDを止めた。

 

たしかに父や母も娘を亡くして茫然自失としているのはわかる。だが、それは息子を追い詰めていい理由にはならないだろう。

大学生といえど望は矢島家のこどもで、妹を亡くしていることにどうして気づけない?
望は妹の身代わりでもないし、目的達成のための道具でもない。
親が子を守らずして誰が子を守るのかと怒りに溺れそうになった。

 

観て良かったと思ったしむごさも含めて好きな作品なんだけど、『埋朝』でも似たような構図が出てきて流石にびっくりしてしまった。

 

 

 

『赦し』について

 

ビツリスが家出しまくっている王子というのは「そりゃそうだよな」と思った。
もし自分が似たような立場だったら絶対に実家と距離を置く。

 

私が家族にコンプレックスを持っているからなのもあるけど、ビツリスもマシータも家族を赦していて驚いた。家族とは赦せるものらしい。
特にマシータは父親を継ごうとめちゃくちゃ頑張っていたので、赦しの境地に至ったことが本当にすごいと思った。

 

母親がDVされていて、諸々の結果死に目に会いたくないと思うほどの傷跡を残して、誰にも言えない秘密と割り切れない思いを抱えたまま生きて、いざ真実を知らされたとき私だったら赦せる自信がない。

 

というより、今の私には家族を赦そうとしてもそれを上回る恨みが邪魔すると思う。
恨みや怒りを抱えたまま生きるのではなく受容し赦して生きた方のが幾分楽らしいとわかっていても、自分の心に深く突き刺さって抜けないものをどこにぶつけたらいいのかわからなくなる。

 

負の感情を手放すには相手が自分にとって利益のある行為(謝罪とか)をしない現実を見つめなければいけないと思っていて、これが存外つらい。
「悪いことをしたら謝りましょう」の「謝りましょう」が未来永劫為されない現実を直視しなければならない。いくら家族でも赦せないことはあって、その上こんな苦しいことがあってたまるかと未だに私は足踏みしているのでどうしようもない気持ちになった。

 

『悪党』も『埋朝』も親の因果が子に報いこどもが苦しんでいる図があって、観ていて私が苦しくなってしまったのだが、ビツリスとマシータが親を赦せた理由はいくら考えてもわからなかった。

 

でも今はわからないままでも良いかな、とも思う。
どれだけ考えたところで、『家族』の概念にコンプレックスを持っている今の私が「二人はどうして赦すことができたのか」と考えても答えなど出るはずがない。

 

『悪党』は最後の救いで胸を撫で下ろしたのがやっとでその先を考える余裕がなかったけど、『埋朝』は千秋楽後毎日毎日毎日フォロワーと『埋朝とは何か』を考えていたので自分の中になんとか落とし込むことができた。

 

そもそも演劇のすべてが現実に即した必要性はどこにもなくて、フィクションだから救われることだってあるはずなのだ。
正直4割くらい今の私には理解できない概念があって、何事も理解に努めたい私は天を仰いだけど、世界があまりにも苦しくて、どうしようもなくつらいことがあっても、救いようのない人間性であっても、命ある限り人生は続いていく。

 

生きることをやめなければ、その先で「わからなかったこと」がわかるようになるかもしれない。矛盾した感想に見えるかもしれないけど、『埋朝』を観て私は知らないことを知るために「生きたい」と思ったし、もしかしたら10年後、15年後には考え方が変わって家族と向き合える日が来るかも知れない。そのときにもう一度同じ物語を観てみたいと思った。純粋に、そのときの私はどんな感想を持つのか気になる。

 

眩しすぎる家族の物語も生きとし生けるすべての生命への「こうであったら良い」と願う、祈りの話なんだと思う。

 

舞台を観て変わったこと

 

『埋朝』を観て変わったことといえば、臓器提供の意思表示をした。


以前からなんとなく意思を持っていたものの、踏ん切りがつかずにいた。
死後提供したいと考えつつも、運転免許証は取得した直後に母に奪われ『提供しない』に○を付けられている。世代間のギャップもあるだろうし、母の考えていることはわからなくもない。

 

スゼジュがライオンに食べられて身体を失っても魂はライオンの中で生き続けるなら、臓器提供も似ているのかもしれない。


私は小さい頃から死が異常に怖くて、消えてしまいたいとか言うけど本質では全く死にたいと思ってなくて、どうにかしてこの世に長く居続けられないか本気で考えていたことがある。


自分の体はなくなっても思いは命より少しだけ長くこの世に留まることができる。それはとても嬉しいし、私自身もそうであったらいい。と思ったら迷いがスッと晴れていくような心持ちがして、私は私の身体が死んだ後、誰かに自分の臓器を差し出したいと思った。

 

もっとも、臓器提供には家族全員の同意が必要なので、今は遺書か何かの形で自分の意思を遺しておくに留まってしまうのだけど。

 

6/8 追記

カードが届いたよ

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本題から逸れそうだった感想

 

『悪党』の最後、望が自分の罪悪感を吐露するシーン。
このシーンに至るまで「つらい」の気持ちが先行しすぎてどうにかなってしまいそうだったけど、本当に観てよかったと思う。すさまじい慟哭に画面に映っているのは演劇だと理解するのに時間がかかってしまった。本当にびっくりした。そこにいるのは矢島望その人だと錯覚してしまうような、感動を超えて恐怖に近い感覚だった。

 

ストレートプレイの『悪党』を観た直後に『埋朝』を観れるのが贅沢すぎて「贅沢だなあ」と呟きまくっていた。
『悪党』は一切の感情を喪失した上体力も持っていかれたので、相当健康なときでないとおかわりできないのがかなしい。

 

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